僕がグラフィックデザイナーとして仕事を初めた頃はDTPが本格的に導入されはじめた頃で、その頃使っていた Power Macintosh 8500 はその当時ではかなり高速なコンピューターであったけれども、データ量の大きい印刷用のPhotoshopデータに対してフィルターをかけると、その度に数分間待つ必要があり、製版用のデータに書き出す作業などは数十分から1時間程度の時間を要していた記憶がある。
そのため、デザインするのも手書きのラフ等を書いてかなり細かな部分まで決めた上で、パソコンでの作業にせざるを得なかったのだけれど、今のパソコンは待つ時間など必要とせず、何でもサクサクこなしてくれるので、あらかたのイメージを頭の中で作ったあとは、そのままパソコンで作業した方が手書きラフを描く時間よりも早かったりする。
そんな僕の様子を見ている若者たちは、やはり手書きラフを書かずにいきなりパソコンでの作業を始めようとするのだけれど、彼らの多くは頭の中でイメージが固まっている訳でもなく、なかなかデザインが出来上がらないし、出来上がったとしても考えられたデザインにはならない事が多い。
そもそもデザイナーという役割に課せられた役割とは、頭の中でイメージを膨らませ、それを具現化するのが役割な訳で、後半の具現化というタスクに至るには、イメージが出来ていないとたどり着かないはずなのだが、どこかで大事な部分が端折られてしまった。
その原因は見本となるべく僕自身がイメージを膨らませている姿を明示的に見せること無く、彼らからみればいきなりパソコンでの作業を始めているように見えるのだと思われ、それを見習っているだけなのかもしれないし、多くのデザイン関連会社で手書きラフを今も重要視している理由はそこにあるのかもしれない。
ツールが高性能になった事が悪い訳ではないけれど、便利になることで本来の価値である「考える」というところが省かれてしまう、まさに本末転倒であるし、人間がテクノロジーを活かしきれていないわかりやすい例なのかと思う。
写真でも同じ事が言える。デジタルカメラはSDカードと電池の容量が尽きるまで撮影することができ、カメラが勝手に露出やピントを合わせてくれる。撮りたいイメージを持たずとも、やたらと撮りまくれば中には良い写真があるかもしれない。ただし、その良い写真の「良い」はその場で感じた瞬間を閉じ込める事に成功した「良い」ではなく、写真の中に被写体が入っていて、ピントと露出が最適で綺麗に撮れているという意味での「良い」であり、本来の「良い写真」からはかけ離れている。
その点、フィルムカメラはフィルムの枚数に制限があるし、フィルム代や現像代もバカにならないため、一枚一枚を考えた上で撮ることを余儀なくされる。そして、機種にもよるが多くのフィルムカメラの露出計は精度が低く、ピント合わせは手動であったりAFが搭載されていても遅かったり合わなかったりするので、カメラの使い方という面でもその場に合わせ自分で色々と考えながら撮らざるを得ない。
『写ルンです』のようなカメラの場合、考えたところでそれらを自由に設定できるわけではないため、ある瞬間に良いと感じ取ったそのタイミングでシャッターを切ることができるため、ピントや露出があっていなくとも「良い」瞬間を捉える事ができる。
そもそも、何が良い写真なのか。それは人それぞれ違うのだろうけれども、自分で何かを感じたその時を写真という手段で閉じ込めるという点に関しては、誰もが考える「良い写真」に無くてはならないものなはずなのに、SNS等でみる多くの写真にはそこが欠けてしまっている気がする。
パソコンにしろ、カメラにしろ、インターネットにしろテクノロジーの進歩は非常に素晴らしく、利便性が上がることで人が作業を行なう時間を減らしてくれる。
テクノロジーによって余裕が出来た時間を、他の作業に回し作業としてこなせる数量を増やすのか。作業数は変えずにその時間を考える時間に回すのか。その選択は人それぞれなのだろうけれど、僕は考えることに費やしたい。